昭和52年01月26日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心せよ、信心とはわが心が神に向かうと言う事だと、我が心が神に向かう、それが信心のはじまりです。ここで大事な事は、神徳の中におっても氏子に真なければおかげはなしとしてある。神徳の中におっても、その事を例えて、カンテラに油が一杯あってもと言っておられるのと同じ事ですね。カンテラの中に油が一杯あっても、芯がなからにゃ火は灯らない。そこで私共は神徳の中におると言う事、御恩恵の中に私共が浴しておると言う事を分かると言う事が、一番大切です先ず。
芯ばかり例えば大きくなりましても、カンテラに油が入ってなかったら火が灯りません。カンテラに油が一杯あっても芯がなからなければ火が灯らない、ですから神様え向かう芯と。カンテラの中に一杯油が入っておるという確信、それが一番二十一節では大事な所と思うです。甘木の初代の安武松太郎先生が、一番初めに小倉にご縁を頂かれて、ある近所の熱心な方から薦められて、明くる日は小倉に一日がかりで、その当時は歩いてのお参りでしょうからね。
約束をされておった、所が前日足に釘かなにかを踏まれて大変それが痛んだ。それでも明くる日は、小倉にあらたかな神様がござるというので、その神様にお参りをしょうと思うておる、その矢先であり前の日の事でありますから、先生まだ見たことも拝んだこともない神様に御祈念された。もしこの神様がね、私を助けて下さる程しのもし神様ならばね、明日あなたのお膝元にお引き寄せを頂けるようにおかげを下さい、という意味の事を祈られたと言う事です。
もう前の晩は疼き走りしておるようなその足の痛みが、明くる日はすっかり気分も良く小倉まで歩いてお参りが出来たという、体験を一番に頂いた。我が心が神に向かうとはそう言う事だと思うですね。そしてお参りをされて、お話を頂かれてお導きをした、人はもう次々と御教えが出るのですから、限り切りがないわけ。で連れの人は帰られたけれども、頂きだしたお話が余りにも、それこそ初めて聞く様な、有り難いお話ばっかりですから、びっくりされて、
とにかく先に帰って貰うて自分だけ残って、終日お話を頂いて帰られたと言う事であった。それがどういうお話であったかと言うと、今まで随分天の恩を説く人はあったけれども、地の大徳とか地の御恩と言う事を説いたことを聞いた事がなかった。むしろ地と言えば泥、忌土と言って穢れたものの様に、まあ宗教に依っては説く所すらある。地は穢れたもの忌土としては聞いておったけれども。
その天地そのものが神様のお姿であり、取分け天は父なり地は母なりという御教えを頂かれて、大地の御恩徳なしには、もう一切の生物が生存する事すらも出来ないという天地の大理を、特に大地の大理を聞かれてからもうビックリされた。その事を今にも言わば残っておる言葉が、それこそ足元から鳥が飛び立つ思いだったと言っておられます。感動が違うね。天の恩を聞いた事があるけども。
地の御恩徳というものを聞いた事がなかった。しかもその大地の御恩徳を懇々と説かれる桂先生の話に酔うてしもうて、終日御教えを頂いて、それこそ足元から鳥が飛び立つ思いと言う事は、もうそれこそビックリ仰天したというのです。私は此の二十一節からね、そこん所をわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと。まだ何というどういう神様かも知らんけれども、まあ狐狸の類の様なものかも知れん分からないけれども。
明日はいよいよお参りをさせて貰うという矢先に足の怪我をされて、もし私を助けて下さる力働きをもってござる神様ならば、どうでもお参りをしたい、そんならそこに一つのしるしを見せて下さいと、心を神様に向けられた訳なんです。ところが明くる日は爽やかな言うなら出立ができ、道中も無事におかげを頂いて心が神に向うた。同時に言うならば今日のここん所ね、我が身は神徳の中にあってもと言う。
カンテラの中に油が一杯ある、それを今まで知らぬ事とは言いながら、天地に対するお粗末御無礼を心から詫びる心が生まれ、その一杯の御恩徳の中にある私共が、芯をたてたところからもう光が灯った。心を神様え向けると言う事。只お参りしょうと言うて向いて歩いて来たというだけではなくて、そこに神様え向ける。心が神様に通う程しの向け方、しかもカンテラに油が一杯あっても芯無ければ火が灯らんと言う様に、カンテラの中に油がいっぱいある事を、大地の道理を大地の御恩徳を聞かれて分かられた。
例えばここん所は話を聞けば分かる事は分かりますよね。天地の大恩と言う事もです。私共が生きて行くうえに惟人間だけではない、生きとし生けるもの一切が天地の御恩恵なしには生きて行かれない。吸わせて頂いとる空気も、使わせて頂いとるお水も、食物一切れだって天地の御恩恵を浴していないものはない。その天地の御恩恵を浴しているという事を、成るほどそう言えばそうだなと分かる事だけは分かるけれどもです。
先ずは神様を信じてからその事が分からなければ、言うならば論語読みの論語知らずに終わってしまうのです。甘木の先生は、もう一番初めからこの神様はあらたかな神様だなあ、神様の力、働きちゃ大したもんだなあと分かられた。その上に言うならば、ここにはカンテラん中には油がいっぱいあるんだよ、この世の中には天地の御恩恵で一杯なんだよ。とりわけ大地の御恩徳というものは大変なものだよと、天を拝め地を拝せよと言う事をです、言うなら実感を以て頂き感じられた。
まあそれからはもう、繁々とお参りになった。もう聞けば聞くほど、頂けば頂くほどの素晴らしい信心であった。そこに私は合楽は今合楽理念と言う事を申しておりますが、言うならば甘木の信心をあれはもう甘木だけのものだと、今の私共が言われておる言葉で言うならば甘木教だと言う風に言ったわけです。おかげを頂くその理念というものがです天地の親神様、いや金光大神の信心をそういう所に頂き止められたんです。
だから言うならそれが甘木理念になってお参りをして来る皆が、どういう難儀な問題を持って来うが、天地の御恩徳だけでおかげを頂いた訳なんです。それこそ枯れ葉一枚でも枯れ枝一本でも、天地の御恵みのかかっていないものは無いぞと、それが甘木理念です。ですからどんなに経済なら経済の面でお願いに行っても、病気でも人間関係でお願いに参りましても、説かれる所は天地の道理、天地の御恩徳以外はなかった。
だから今まで簡単に頂いておったお水一掬いでも、米一粒でも、それこそ枯れ葉一枚でも枯れ枝一本でも押し頂くことを教えられた。そこに天地が感動される、その感動が奇跡なおかげにもなってあらわれて来た。これが玉水の場合になると、いわゆる大阪が商都と言われる程しの所ですから、先生自身の体験から、いわゆる神様が御主人なら其処の主人は支配人だ番頭さんだと、家内はそこの女中頭だという風に教えられた。
だから他の話を聞かなくてもその道理を聞かせて貰うてです、言うならば神様を芯にして自分はそこの使用人として、そんなら使用人としてはどうあらなければ神様のおかげが受けられないかと言う事を、銘々が悟り又はお話を聞かれたに違いはないです。神様が御主人、私が今までここの社長だと思うておった、店長だと思うておったけれども、私は支配人であり番頭であると分からせられた。
そこでその、なら番頭がどうあらななければ認められないかと言う事を思うてみると、すぐ答えが出てきた。言うならば主人の前に陰ひなたの心どん持っとってでは、主人に大して相済まんと言う事が分かって来た。得手勝手な事をしちゃならん、一々主人の御神意のまにまに動くのが良い番頭だと分かられた、分からせられた。これが言うならば玉水理念ではないでしょうかね。これはどう言う事かと言うと、天地の親神様を親と立て仰いだこれは生き方なんです。親を親と立てる。
親神様を親神様と見立てての私共であるという理念です。先日から頂きます様に、合楽の信心の根本理念は親孝行だ。しかもそれが只肉親の親に孝行すると言うだけでは、親も喜ぶ又自分も嬉しいけれども、それだけでは大した事はない。その親孝行の心が段々エスカレ-トして行って、そしてギリギリの親を分からせて貰うと言う事、ギリギリの親が分かった時に親に対して、ならどうあらなければ親が信用してくれないか、親が喜んでくれるかと言う事を、一生懸命研修したら金光様の御信心が分かって来る。
その親を親と分からんなりにでは、仲々実感が伴なわないわけなんです。そのなら親の喜びを得るためには、親の心がまずは分からなければならない、というそこから合楽の理念が具体的な表現になって来るのです。神の心を心とする為に神の心がまず分かり、所謂天地日月の心になるという事。なら天の心とは地の心とはと具体的にそれを分かっていく。そして天の心が分かった地の心が分かった、そこから天の心にもならせて貰おう、地の心も頂かして貰おう、という修行が言わば楽しく始められる事になる。
しかも今まで実意丁寧を欠いでおった、なそうと思えば子供でもなせる様な簡単な事をもう良か良かで、言うならばそれを行じようともしていなかったと言う事にまで、最近の合楽の理念は及んで来とります。おかげを受けても又おかげを落とす、どうしてこんなに堂々回りの事ばっかりだろうか、成るほどこういう小さい穴と思うておった、その小さい穴からおかげが洩れておった事に気付かせて頂いて、最近の合楽の信心が段々言うならば水も漏らさん程しの信心が確立されて行きつつあるのでございます。
どうぞどういう手掛かりからでもよい、私はやはり行じてみる事、天の心とは限りなくもう美しうなる事だ。お互いどういう問題があっても、もうとにかくお互いが美しうなりましょうやと言うたらとにかくそれは難儀で有りましょうけれども、これを修行として頂きましょうや、頂きます、という合言葉をもって進んで行くならば問題はその場で解消するんだと言う様に、それを取り組んで行じて見なければいけんのです
。限りなく美しい心になろうと思わないから問題が問題として残って、それが意地やら感情やらになって、人間関係がいよいよややこしいものになって来るのです。それを行じてみてから初めて生まれて来る体験、その体験は何かというと、我が心が神に向うた、言うならば姿勢を行ずると言う事に依って現した事になるのです。お話を頂けば頂く程、天地の御恩恵なしにはどうでも生きて行かれん、カンテラの中に一杯ある、我が身は神徳の中に生かされておるんだと言う事が、実感を以て分かって来る様になる。
其処に神恩報謝の心も段々生まれて来る。そういう芯が出来、そういうカンテラに油一杯ある事が自覚出来て、その芯がなら今度は阿倍野の先生じゃないですけれども、同じ芯でも小さい芯では小さい光りだと言っておられる。だから大きな芯を頂きゃ大きな光と。そこで今度は愈々大きな心にならなければいけない。其処で必要なのが必要な修行が、所謂大地の心を心とする修行という事に成って来るのです。阿倍野の先生が、もう一切どんな事であっても有り難いで受けて行こうというその信心です。
合楽で言われる所の、大地がそれこそ黙って黙って、受けて受けて受けぬく心だと合楽では説いとるわけです。しかも受けて受けて受け抜くという事は、その地を肥やす働きまでするのだから、むしろ受けるだけでは無くてお礼を言わなければいけないのだと説くのです。おかげで心が豊かになります。おかげで心が大きくなります。そこに大きな芯が出来てくるのです。大きなおかげを頂きたいと思うなら、大きな芯を頂かなければ大きな光になりません。
そういう信心がです、世界の隅々までも輝らそうかというほどしの願いを立てておるのが、合楽示現活動に参画するとか、又は和賀心時代を世界にとかという言わば理念に成って来るのです。小さい芯、五燭光だったらやはり五燭光だけの明かりです、百燭光、万燭光もという明かりになる時に、言うならば広々とした部屋が隅々まで明るく輝いて来る様なものなんです。
ですから只世界の平和とか、世界総氏子の助かりとかを祈り願うではなくて、願うからには私が芯を大きくして行くところの願いというものが、立てられなきゃなりません。其処で今日一日もです、限りなく美しうならせて、天の心を神習わせて貰おう。限りなく大地の心を以て受けて受けて受け抜く、言わば生き方を今日もおかげ頂かして貰おう。いよいよ今日も日月の心、言うならば正確無比と言われる日月の心をです、些細な事をどんな些細な事でも無駄にしない疎かにしない生き方。
ここん所をなそうと思えば子供でもなせる程しの事だと言っておるんです。それを成して行く事が実意丁寧だと言う風に合楽では説いておるわけです。そういう信心がです、今日一日それに取り組まれるところにです、いよいよ神恩報謝の心というものが強うなって来る。言うならば真に有り難いという物が出来て来る。昨日誰かここにお供えを持って来て下さってある。
これをさっきからしきりに頂くが、これを誰がお供えをしとるか分からんから、何がこれを頂くだろうかと思ったら、これに株式会社味喜屋とある、ははあこれだと思った。味喜とは味の素の味です、喜は喜ぶです。だからいうならば此の味喜屋のおかげとでも申しましょうか、その味わいというものを味わせて頂く喜びと言う事なんです。そこには自分の好きな玉子焼きばっかり、はあ鯛のお刺し身ばっかりと言う事じゃないのです。もうあげなものは見るとも嫌というのもあん中にはあるわけです。
例えば魚のモツ類なんかはそうですよね。あのこのわたなんかっていうのはもうナマコのわたですから、見ただけで言うならば嫌ち言うごたるです。「たんごろ吐きかけた」ごたる感じですからね。所が実際頂いてみると、天下一品の言うなら味わいがある様にです、だから今日一切の事を、言うなら天の心で地の心で、日月の心でと言う様な生き方になってくる時に起きて来る、様々の問題を問題とせずに、それを私共が一つの味合わせて頂くとして頂いたら、味わう喜びが其処から生まれて来る。
そういう信心だから合楽の信心は楽しいんだと私が言うのです。今までこんな美味しいもの食べた事なかったという様な味わいがある。いやいやもう本当に、一番好かんというようであったのが一番好きになるから不思議である。又確かにそうですこの神様は。例えば宝探しなんかの時に、とても良い商品のある札がすぐ見つかる所に置いてない。もう汚い物の下に置いてあったりね。もう目に付かんごたる所にある。
そこん所をこうやって開けて見ると、其処に言うならば自分が探し求めておった様なものがそこにある様なもんです。此の寒中にどうして竹の子があるかと言うたら、もうあの二十四孝のお芝居は生まれなかった。けれどもこの寒中にでも竹の子が食べたいというその親の心にです、親に孝行する心があってするならば、天の与えでひょっとすりゃあるかもしれんと言うて雪中に下りて行って竹の子掘りをするわけです。
ところが勿論竹の子は無かったけれども、自分が捜し求めておったものがそこにいけてあったと言うのです。だから味わいがあるんです。私は今日の御理解はこの味喜屋ね、味を喜ばせて貰う生き方を日々限り無く続けて行く修行、それを合楽理念に基づいてという事になりましょうし、同時に我が心が神に向かうのを信心と言うのは、やはりその切迫感とでも申しましょうか、切実な感とでも申しましょうか。
甘木の初代が神様に向かわれる時のその姿勢、同時に頂かれたその御理解が、今までかって聞いた事もない大地の御恩徳を聞かれて感動された。それこそ足元から鳥が飛び立つ思いというのがです、その前に神様をこの神様は大変な神様だと、もう日々信じられ感じておられる所えその話を聞いたから感動になって湧いて来た。今日は此の辺の所を一つ頂きとめて頂きたいと思います。
どうぞ。